色黒の豚

飛ばねえ豚はただの豚だ

絶叫する教会

 ザンビアの教会の礼拝は、日本人がイメージするような教会とは随分違うらしい。静かに神父さんの話を聞くだけでなく、爆音で音楽を流して叫びあう、と。そういうことを聞きつけて、知人に日曜日の礼拝に紹介してもらった。しかし、そこで起きていたことは、想像を遥かに超えていた。

 

 中に入ると、確かにそこはライブハウスのようだった。司祭のような人がマイクを持ち、頭を仰け反らせ、何事かを絶叫している。声を枯らせて、デスボイスを出す。それに合わせるように、100人近い信者が、拳を振り上げ、何某かの言葉を唱えている。ある人は悲壮な顔で、ある人は必死の形相で。目を強く瞑って。ベース、キーボード、ドラムの3ピースが、教会の前方で大音量で演奏をしている。空気が音で震えていた。

 暫くして、演奏が終わると、司祭の手引きの下、賛美歌を歌い、聖書を読む時間がある。それは、日本の教会とも、そう変わらない光景だ。だが、その後から、流れが変わり始めた。

 

信者の女性の一人が、教会の前に出る。信仰告白か、罪の懺悔だろうか。司祭に悲痛な顔で何かを訴える。それを聞いた司祭は、説法を始める。説法は次第に白熱し、最後に、「Heal it」と叫びながら、女性の頭に手を当てる。そうすると、女性が激しく痙攣しながら失神して倒れるのである。その痙攣の仕方は尋常ではなく、おれは思わず、周りの人の表情を見まわした。しかし、彼等には驚いている素振りは一切ないのだ。

 痙攣して後ろに倒れた女性を教会の人が支え起こす。女性はまだ意識が朦朧としているようであったが、司祭に再び向い合せられる。司祭の人が、これでもう大丈夫だ、というようなことを言うと、女性は安堵した表情を浮かべ、椅子に座らせられた。信仰心の無い者には、俄かには信じられないことだった。そして、とても演技には見えなかった。

 一人目の信者が終わると、我も我もと司祭の前に信者が並び始める。彼らはそれぞれ、司祭の問いかけに答え、各人の心の不安を当てられる。そして、「Heal it」 の叫び声と共に、手を当てられ、一様に痙攣して倒れるのである。

 

 一段落がつくと、司祭は、マイクを司会の女性に渡す。司会は、皆の注目を教会後方に集めた。そこには、いつから待機していたのだろうか。紙に何かを書きつけて、頭上高く掲げている人たちがいる。司会の解説によると、彼らは、身体に問題を抱えている人たちだ。そして、司会はその中の一人の老女について、語り始めた。彼女は、長い間足を悪くしており、車椅子で移動しているという。その女性に、司祭は近付いていった。

 司祭が老女に話しかける様子は、テレビカメラを持ったスタッフによって撮影されている。他の信者と同じように、老女の話を聞いた司祭は説法を始め、老女の脚に手を当て、Heal it と叫ぶ。すると。老女は車椅子から立ち上がって歩いた。恍惚の表情を浮かべて。司会が、奇跡が起きた、と叫ぶ。そして、教会中が感動に包まれるのだ。

 身体を悪くしているという人たちは、頭痛、腹痛、果ては高血圧など、様々に症状を紙に書いて掲げている。その一人一人に、司祭は話しかけ、手を当てて叫び、そして、彼らは治ったと感激する。それは、最後の1人になるまで続いた。

 

 彼等の身体の具合が悪かったのか、そして本当に治ったのかは分からない。ああも一様に、人が痙攣して倒れるものなのかも、分からない。しかし、その表情を見る限り、彼らは救われているようなのだ。おれの狭い了見では推し量れないことである。

絶叫する教会

 ザンビアの教会の礼拝は、日本人がイメージするような教会とは随分違うらしい。静かに神父さんの話を聞くだけでなく、爆音で音楽を流して叫びあう、と。そういうことを聞きつけて、知人に日曜日の礼拝に紹介してもらった。しかし、そこで起きていたことは、想像を遥かに超えていた。

 

 中に入ると、確かにそこはライブハウスのようだった。司祭のような人がマイクを持ち、頭を仰け反らせ、何事かを絶叫している。声を枯らせて、デスボイスを出す。それに合わせるように、100人近い信者が、拳を振り上げ、何某かの言葉を唱えている。ある人は悲壮な顔で、ある人は必死の形相で。目を強く瞑って。ベース、キーボード、ドラムの3ピースが、教会の前方で大音量で演奏をしている。空気が音で震えていた。

 暫くして、演奏が終わると、司祭の手引きの下、賛美歌を歌い、聖書を読む時間がある。それは、日本の教会とも、そう変わらない光景だ。だが、その後から、流れが変わり始めた。

 

信者の女性の一人が、教会の前に出る。信仰告白か、罪の懺悔だろうか。司祭に悲痛な顔で何かを訴える。それを聞いた司祭は、説法を始める。説法は次第に白熱し、最後に、「Heal it」と叫びながら、女性の頭に手を当てる。そうすると、女性が激しく痙攣しながら失神して倒れるのである。その痙攣の仕方は尋常ではなく、おれは思わず、周りの人の表情を見まわした。しかし、彼等には驚いている素振りは一切ないのだ。

 痙攣して後ろに倒れた女性を教会の人が支え起こす。女性はまだ意識が朦朧としているようであったが、司祭に再び向い合せられる。司祭の人が、これでもう大丈夫だ、というようなことを言うと、女性は安堵した表情を浮かべ、椅子に座らせられた。信仰心の無い者には、俄かには信じられないことだった。そして、とても演技には見えなかった。

 一人目の信者が終わると、我も我もと司祭の前に信者が並び始める。彼らはそれぞれ、司祭の問いかけに答え、各人の心の不安を当てられる。そして、「Heal it」 の叫び声と共に、手を当てられ、一様に痙攣して倒れるのである。

 

 一段落がつくと、司祭は、マイクを司会の女性に渡す。司会は、皆の注目を教会後方に集めた。そこには、いつから待機していたのだろうか。紙に何かを書きつけて、頭上高く掲げている人たちがいる。司会の解説によると、彼らは、身体に問題を抱えている人たちだ。そして、司会はその中の一人の老女について、語り始めた。彼女は、長い間足を悪くしており、車椅子で移動しているという。その女性に、司祭は近付いていった。

 司祭が老女に話しかける様子は、テレビカメラを持ったスタッフによって撮影されている。他の信者と同じように、老女の話を聞いた司祭は説法を始め、老女の脚に手を当て、Heal it と叫ぶ。すると。老女は車椅子から立ち上がって歩いた。恍惚の表情を浮かべて。司会が、奇跡が起きた、と叫ぶ。そして、教会中が感動に包まれるのだ。

 身体を悪くしているという人たちは、頭痛、腹痛、果ては高血圧など、様々に症状を紙に書いて掲げている。その一人一人に、司祭は話しかけ、手を当てて叫び、そして、彼らは治ったと感激する。それは、最後の1人になるまで続いた。

 

 彼等の身体の具合が悪かったのか、そして本当に治ったのかは分からない。ああも一様に、人が痙攣して倒れるものなのかも、分からない。しかし、その表情を見る限り、彼らは救われているようなのだ。おれの狭い了見では推し量れないことである。

私達の村

 ザンビアの都市部の近郊には、コンパウンドと呼ばれる地域がある。そこには、舗装された道路だとか、スーパーとかはない。代わりに、野菜や生活用品を売る露店が道沿いに並び、ちびっ子がタイヤやらペットボトルを転がして、遊び回っている。都市部では、スーパーの周りなどで、ストリートチルドレンが物乞いをしているが、コンパウンドでは目にしない。物乞いをする相手がいないか、あるいは共助があるのだと思う。

 ザンビアでは医療費は原則無償で、コンパウンドにも診療所がある。しかし、医療従事者の数が足りていないので、医療サービスの水準は一定ではない。診療所には、職員以外にボランティアの人が集まっており、5歳以下の幼児の身体測定や、エイズの簡易検査などを手伝っている。こうした業務は、完全にボランティアに頼り切りになっており、ボランティアの高齢化による人手不足が心配されている。ここで、ボランティアの人がエイズの簡易検査に回るのに、同行させてもらった。

 

 エイズ診療は、指先に針を刺し、その先から血液を採取して行う。この検査キットは、USAIDアメリカ合衆国国際開発庁)から寄付されたもので、検査にお金はかからない。検査結果を個別に伝えた後、コンドームの必要性を説明し、希望した人に無償で配布する。この一連の流れは、約15分ほど。数時間にわたって、コンパウンドを回る。ザンビアでは、全人口の11.5%(2017年時点)がエイズに罹患しており、陽性反応が出ることは珍しくない。

 このボランティアの人たちは、コミュニティの人に慕われている。彼等もそこに住んでいるのだ。集落を歩けば、人に名前を呼ばれ、笑顔で挨拶をする。持病の話を聞く。エイズ診療と言われると、仕事中の人も、髪を切っていた人も、嫌な顔一つせずに、手を止め、協力する。ボランティアの話を、真面目な顔をして聞く。

 ボランティアの中には、30歳近くの年の若い男性がいた。彼に、何故ボランティアを始めたのか、と聞くと、ここで生まれ育ったから。と答える。ここで、生まれ育ったから、ここを良くしたい。果たして、おれはそんな郷土愛を抱いたことがあっただろうか、と思う。

 

 世界遺産ヴィクトリアの滝があるリビングストンには、博物館があり、ザンビアの歴史を展示している。そこにある、「私達の村(Our village)」から、「彼等の街(Their town)」へ、という展示コーナーがあり、その言葉が印象的だった。かつての「私達の村」では、互いが互いを助け合って生きていたが、「彼等の街」では、人は番号付けされ、隣近所の人さえ知らない。そして、村から街、への流れはもう止められない、というようなことが解説されている。

 ナコリのボランティアの、その無償の善意を見る度に、ここは、その「私達の村」という言葉がしっくりくるように思うのだ。

人間不信の黄色人

 海外に行く機会に幾度か恵まれ、何となく海外慣れを自負していたが、なんのことはない。今までに訪れた土地が、わりに行きやすい場だったのだろう。ザンビアの地方都市、カブエの街中を1人で歩くと、おれは、自分が普通にビビりだったことを思い出した。ここに、アジア人はまず歩いていない。すれ違う人は須らく黒人であり、おれはどうしようもなく目立つ。落ち着かなかった。こちらに向けられる眼差しの中は、好奇のもの、奇異なもの、訝しげなもの。そして、時折暗いものも感じる。路地裏のマーケットを通り過ぎると、座っていた男から、イエロー、と呟かれる。おれは、そのとき初めて自分が黄色人であることを意識させられたのだった。
 繁華街まで行くと、まばらにある床屋が爆音で音楽が流していた。そこら中から、ヘイ、ブラザー、ヘイ、マスター、マイフレンド、と何かしらの客引きが寄ってくる。目立つアジア人であるが故に、カモにされないか。ひったくりに遭わないか。そうだ、ここでは銃が合法だった。そう思うと、景色が変わって見え、変な汗をかく。地図を見たら、キョロキョロしながら歩いたら、如何にもカモみたいでまずい。なるべく、目を合わせずに。足早に。
 こうも不安になるのは、腹が減ってるからではあるまいか。何かを腹に入れようと、食べ物を探して歩く。なんとかカフェ、と看板のある店を覗くと、小さく、明かりのない暗い店ではあったが、そこでは、とにかく食べ物を売っていた。突然一人で入ってくるおれを見ると、店員さんはやはり訝し気な顔をしていたが、ミートパイを頼んだ。ザンビア訛りの英語は聞き取りにくく、英語までできなくなった気分になった。店内の古いテレビは、昆虫を特集とした生物番組を映しており、ぼんやり眺めながら食べた。少しして運ばれてきたミートパイはパサパサしていたが、肉肉しく、想像以上に腹にたまった。
 腹が満たされると、おれは何だか一仕事終えたような満足した気持ちになり、店員さんにサンキューと口にした。店員さんも、少し笑ってくれるので、うれしかった。外へ出ると、こちらへ向けられる眼差しも、それ程気にならなくなってくる。こちらを見るちびっ子たちにも、サービス精神が生まれ、手を振ると、気持ちよく笑って手を振り返してくれる。荷物を頭に載せて歩く女の人の後ろを歩き、家路に着いた。
                                 (つづく)

サラズゲストハウス

 ウランバートルの最後は、Sara’s guesthouse というゲストハウスに泊まった。その名の通り、サラさんというおばさんが経営する所で、外国人が沢山集っていた。サラさんは、綺麗な発音の英語を喋り、また優しくも落ち着いていた。そのサラさんを慕うように、長期滞在する外国人客もちらほらいた。

 共同スペースで、ヒッピーのようなアメリカ人と喋った。長髪で、服がボロボロしている。聞けば、このゲストハウスには一か月ぐらいいるらしい。その前もアジアや南米をふらふらしていて、こうしてゲストハウス暮らしを続けているらしい。もう数年はアメリカに帰っていないそうだった。夜になるとウォッカをホイホイくれるので、ホイホイ飲んだ。

 彼は酔ってくると、PCyoutubeを開き、部屋にあったテレビとリンクさせた。そうして、アメリカの野外音楽フェスの動画を流した。その後は、音楽に聞き入ったようで、あまり喋らなかった。彼の様に、世界を放浪するというのは自由気ままなようでいて、常に仮の居場所にいる寂しさもあるんだろうとか勝手なことを思った。

 朝はなかなか起きる気になれず、昼前までベッドにいた。しかし、何とも腹が減ったので、のろのろ起き上がって共同スペースに向かうと、サラさんが朝ごはんを食べるかと聞いてくれた。ご飯探しに付近を探索せねばなるまいと思っていた手前、おれは大いに感動した。    

 ごはんは、モンゴルの小さい餃子のようなものと、簡単なサラダだったが、とにかく優しい味に感じられた。人間、予想外のことにこそ、感動するものだなと思った。よく見れば、朝ご飯つき、と予約したサイトには書いてあったが。

 またいつか来たいなとか、サラさん元気でね、とか思いながら宿を出た。

 

                              モンゴル編 おわり

羊の屠殺

滞在していた遊牧民のお爺さんお婆さんのゲルに、ウランバートルから友達が来たので、羊を一匹買ってもらうという話になった。肉にするところを見てみるか、と問われて、お願いする。

 まず群れの中から羊を選ぶ。羊の大群を追い立てて走らせ、活きのいい一匹を探し、狙いをつけ、首に向かって投げ縄を投げる。これが見事にはまるので、カウボーイみたいだなと感心した。投げ縄で捕まった羊は、初めは鳴き声をあげて、ジタバタ抵抗するが、無理だと悟るのか次第に大人しくなる。お爺さんは、捕まえた羊を後ろから抱えて、人のいない所に運ぶ。女の人や、子供に屠殺の瞬間を見せてはいけないらしい。おれはこれから死にゆく羊の命に対して、何かしら敬意を見せるべきであるような気がして、帽子を取った。

 初めは、二人がかりで、羊のお腹を見せるような体勢に寝かせる。そして、ナイフでお腹に素早く切れ込みを入れ、そこに手を入れ、動脈のようなものをちぎる。羊は、ビクッと痙攣して手足を振り上げるが、次第に動かなくなっていく。想像していたのと違い、血は殆ど流れなかった。絶命の瞬間は、劇的でなく、淡々と訪れて、おれは何だか感情が追い付かなかった。

 そうして、解体が始まる。ナイフを入れると、羊の皮は、簡単に肉から剥がれた。羊の体はまだ温かく、皮を剥いてなお体温を感じた。そうして露わになった内臓を食べられるものと、食べられないものに分ける。と言っても殆ど残さずに食べるし、食べられない部分は飼い犬にあげるから捨てるものはない。

 パンパンに膨らんだ胃を切り取ると、中のガスが噴き出し、一気にしぼむ。強烈な腐臭が辺りを漂った。胃袋からは、消化しきれていない草が見える。おれは動かなくなった羊の頭を抑えて固定して、空いた手で解体作業を手伝った。さっきまで生きていた羊が、焼き肉屋で食べるような、見覚えのある部位に分けられていった。匂いは次第におさまったが、草原の中で作業するものだから夥しい数の蠅が集まってくる。あまりに多いときは、手で払いのけながら、黙々と作業が進んだ。

 解体が進むと、お婆さん達がやってきて内臓を水で洗う。屠殺が終わった後は、家族一丸で作業を進めるのだ。どこもかしこも蠅が寄ってくる中で、内臓を洗い、綺麗にした腸に血を詰めたりした。ちびっ子は羊の解体など気にもせず、隣でボール遊びなどしていて、これは日常なんだなと当たり前なことを思った。

 それから、しばらくして茹でた羊肉に塩を振って食べた。臭みは全然なく、また羊の姿を思い起こして気持ちが悪くなることもなく、肉はただうまかった。初めて羊を殺して、すぐに食べることに葛藤が起きないくらいには、おれの感性は鈍かった。ただ、その映像や匂いはやけに残っていて、どこかで思い起こすかもしれないと思った。

                                    つづく

現代的なゲル

ゲルに着いて、驚いたのが、液晶テレビがどっしり構えていたことだ。五畳くらいのテントの中にベッドが2つと他にテレビだったり、冷蔵庫もどきだったり、電化製品が並んでいる。そりゃ所得があると考えると、不思議ではないが、遊牧民というワードの先入観に騙される。ゲルの中は、冷房がなくとも少しひんやりとして涼しく、気持ちが良かった。

 ゲルは大草原の遊牧地の中に群立している。大草原の中にゲルが30-50ぐらい並んでいる様子は、モンゴルの牧歌的なイメージを裏切らず、おれは大いに感動した。辺りには、羊やヤギ、ヤクの大群が放牧されている。しかし、家であるゲルの外には、ソーラーパネルが設置されていて、中には、電化製品が揃う。その隣には、家宝らしいモンゴルの立派な馬具が並んでいたりして、これが今日の遊牧民の家かぁとしみじみと思う。おれは遊牧民の暮らしというものに、昔と違わぬ伝統のイメージを押し付けていたが、彼らの暮らしも当然に年々変わっているのだ。

遊牧民族の目下の悩みは、後継者不足らしい。昔はそうでなかったが、今は子供を都市部の学校に行かせるため、子供が都会での生活を選び、ゲルには戻ってこないのだという。確かに都会での暮らしを体験した後に、ゲルに戻る気にはなれないかもしれないが、より良い生活の選択の結果として、遊牧民の暮らしは少しづつ廃れる。おれがそれを寂しいようだというのは、部外者の勝手であるが。

 滞在した時期は、子供が夏休みだったので、遊牧民のお爺さんお婆さんの孫が5~6人、遊びに来ていた。暇なのでちょっと混ぜてもらうと、色んな動物の所に連れて行ってくれる。生まれたてのヤギだとか、普段乗っている馬だとか。ちびっ子は、藁の小屋に向かうと、両の手で一匹ずつ、子猫の首根っこをむずと掴み、ケラケラ笑いながら見せてくれる。モンゴルで猫は忌み嫌われているらしく、大人たちは嫌だ嫌だといって退散する。なんでも、猫は飼い主の死を望む眼をしているのだとか。チミタチも随分な言われようだな、と思いながら、子猫の頭をなでた。

 

                                    つづく